まさか!の乳がん体験記−4

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前の日からの続き。  K先生は、こうも言われた。「子供もまだ小さいとか、学資の上に治療費も掛かる、という時ではなくて、言い方はおかしいけれど、今の『功なり名を遂げた』年齢で、乳がんになった事は、まだ不幸中の幸いやで。それに、医者がこんなことを言うのも妙な話やけど、出来る限りの医療を尽くしても、助からない人もいて、その人の運命としか言いようが無い。」
私はこれを聴いて、気休めを仰らない正直な先生だなぁ、私と全く同じ考えだ、この先生にお任せしよう。 と言う気になった。 実は、乳ガンかもしれないと言われた時、この病院は家にも近いし、何かと家族にも便利だけれど、ここには入院したくないなぁ、とも迷っていた。(2007-6-7 セカンドオピニオン のブログに理由を書いています)。  医師である甥のお嫁さんに相談しても、今の病院で手術しなければならない事もないし、直ぐに決めないで、相談しますと言っておいたらよいと言われていた。  でも、迷ったり相談したりの間も無く、その日の内に、手術の為の予定も決まってしまった。                   

まさか!の乳がん体験記ー3

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主人と受診2009年5月12日 連休の間落ち着かず、少しでも気になるところを整理の真似事などをしながら、「こんな事しても、乳がんではありませんでした、と言う事になったら、どんなにいいだろう。」などと虫のいい想像したが、「ご主人と一緒に」とは、やはり決定的と言う事だろうと、重い足取りで病院へ。  
「残念ながら、やはりガンです。が、ラッキーな事に、腋のリンパ節には転移していない。手術の時に、センチネルリンパ節(最初に転移するリンパ節)の確認も行うので、ここで、ハッキリします。」と話され、今までの簡単な検査で判った病状について説明を受ける。患者向けの説明プリントに書き込みながら、丁寧に噛んで含めるように、説明して下さった。何度も途中で、患者が理解しているか、顔を見ながら「よろしいな」の念押しの言葉が入る。
普通、乳房を残すなら、ガンの大きさが3センチまでが望ましいそうだが、私の場合、3.5センチぐらい有るらしい。何とか温存させたい、と主人にも仰った。  「もう(命が助かるなら)どちらでも。」と主人が言ったら、「そんなにあっさり言われたら、何や、やり甲斐が無いなぁ。こんな時、大抵ののご主人は、奥さんの気も知らんと、『もう、バッサリ取ってしまって下さい、と言うのが多いねん。そやけど、オッパイは女性のシンボルや、僕は女性の味方やから、何とかトライして、残そうと思う。」と言われた。 後で知った事だが、此処の乳腺外科は評判が良く、特に、このK先生は患者の信頼も厚いようであった。   

まさか!の乳がん体験記−2


マンモグラフィー 胸のしこりの事は、いつも頭の隅にあって気になるので、妹に、話したら、「この頃は、マンモグラフィーの在るところが多いから、安心の為にも、一度撮って置いたら」と言われる。
毎月の池田市の広報に、乳がん検診とマンモの事が載っていたのを思い出し、医療センターに電話する。しかし、その日は集団検診だけと言われるが、「お隣の市民病院なら、『乳腺外来』と言う日があって、その日には、予約がなくても受けることが出来、直ぐに結果も判ります。念の為に、保険証も持って行くように。』と親切に教えられた。
その次の日(2009年4月28日)が乳腺外来の日で、これも、本当に運が良かった。もし、離れた日が乳腺外来だったら、又、そのうち と思って、もっと酷くなるまで、受診を先延ばしにしていたかもしれない。
翌日8時半に行って、直ぐマンモグラフィーは撮って貰ったが、診察の予約はしていなかったので、随分長く待たなければならなかった。その間、絶対乳がんなんかではないと思っていたのに、だんだん、もしかしたら、乳がんかもしれないなどと思えてくる。名前を呼ばれた時は、乳がんに違いないと思ったりした。         ドキドキしながら、診察室の椅子に掛け、目の前のX線写真を見たら、片一方の胸は大方白く写っていた。やさしそうな白髪混じりの先生が「いつ頃から、しこりが在ったの?」と尋ねられたが、恥かしながら、つい、この間まで気付かなかったのだ。「そうしたまま、自分の胸を見ると、引き攣れてエクボが在るでしょう?」「あんなに口を酸っぱくして、自己触診の大切さを言い、ホームページにも、詳しく載せているのになぁ」と残念そうに仰った。家に帰ってから、乳腺外来のホームページを見たら、なるほど、実に詳しく、その方法も書いてあった。
「50パーセント以上、乳がんです。次には、ご主人と一緒に来て下さい」と言われる。このような時、よく、頭の中が真っ白とか、目の前が真っ暗になったとか、聞いていたけれど、私の場合、「あぁ、やっぱり。 でも、これで一寸ホッとした。」と言う気持ちであった。  何故なら、私は、時々、「こんなに幸せでいいのかしら」と思う気持ちが在り、その一方で、「こんなに幸せだと、今に大きなしっぺ返しに遭うのでは」 と不安になったりしていたからだ。    しっぺ返しが、私の病気で、他の家族の病気でなくて本当に良かった、と思い、「やっぱり」感とともに、主人の顔と、「身辺整理」と言う言葉が直ぐに頭に浮かんだ。                             今思うと、癌だと判ったからといって、死ぬと決まった訳ではないし、死ぬのが恐いわけではない。先にあの世へ引っ越してしまった大好きな人達、野良から可愛がったワンちゃんや、にゃんこ達にまた会える。  一番会いたいのは、ろくに親孝行も出来ず、頼りにするばかりだった実家の母だ。本当に会いたい! こんな思いが、狭い頭の中を駆け巡る。
どうして、お金を払い、病院を出たのか憶えていない。受診する前は気軽に考えて、いつもの買い物に廻って帰る積もりだったのに、勝手に足が我が家の方向に向かっていた。
 此のまま人生が終わるとしたら、何と幸せな一生だろうと思う。自分では、何一つ努力もしないで、自分には過ぎた伴侶(小さい不満は色々在るが)や多くのいい友達に恵まれたのは、全く以って、「お陰さま」としか言いようが無い。生まれてから、ズーッと「お陰さま」に支えられて来た人生だったと思う。
ところが、もう何も思い残す事が無いと言えば好いのだが、そうは言えぬ。 今までは、自分が未亡人になって、悲しい思いをするくらいなら、ほんの少しだけ、私の方が連れ合いより先立つ事が出来たら、どんなにいいだろう などと勝手なことを考えていたけれど、こうなると、パットしない男二人が遺された家庭を想像して、なんとも遣りきれなくなる。                          特に、最近、杖が手放せなくなったり、繁華な場所への独りでの外出を敬遠するようになった、少し足の不自由な主人のことを考えると、どうしても、サッサと先立つ事は出来ない。人生残り少なくなってから、毎日、外出にも不自由を感じ、話し相手も無く、笑う事も無く、情けない思いをして暮らすに違いないなどと、限り無くマイナス思考になってしまう。
 どんな顔をして、「ただいま」と家へ入ったかも判らないが、玄関に出てきた主人に、眼を合わさない様にして、「乳がんかも知れないんやて。」と告げる。そうしたら、「やっぱりそうやったんか。」と意外な返事。                                 いつも、よっぽど酷く熱でも出ない限り、お医者さんには行った事は無いし、住民検診も、いくら勧められても受けた事は無いのに、今朝は早くから、「マンモグラフィー撮ってくる」などと言って出かけたので、もう、その段階で「乳がんに違いない」と思ったらしい。私の留守の間、色々調べたり考えたりしていたらしいし、40年近く前に、義姉が乳がんになり、その頃は、今と違って、肋骨まで動かす大きな手術をして、周囲のリンパ腺は言うに及ばず、怪しいところは、徹底的に取り除き、もし再発したら、もう取り除くところは無いから諦めるようにと宣告されたくらいの乳がんだったが、幸運な事に、抗がん剤も、放射線治療も受けなかったが、70半ばをとっくに過ぎた今も、とても元気だ。                     こんな事もあって、私が想像していたよりは、ショックも大きくなかったように見えて、少し、ほっとする。いずれにしても、花の季節から、新緑の頃へ、世間は連休が近くなって、愉しげなのに、憂鬱な事であった。

まさか!の乳ガン体験記−1


 いよいよ今年も残り少なくなった。自分にとって、大揺れの1年でした。2回の中国旅行の事を先ずは、ブログに書きたかったけれど、私にとっての一大事を先に書きたい。それには、新年早々のブログを、病気の記事で始めるのはイヤだ。今年中に、体験記を始めておこうという気になった。
事の発端 あれは2009年1月頃だったかも知れない。お風呂から上がって、何となく鏡を見たら、其処には重力の法則に従って、垂れ気味のオッパイの情けない格好の私の姿があった。それまでは、豊満な乳房の持ち主だけが、年取ると、ホルスタインのようにそれが垂れてくるのだと思い、私の様な、こんな貧弱なペチャパイは、垂れてこないと思っていた。二十歳の頃は想像もしなかったオッパイだ。       若い頃は、きっと、乳首ももっと上の方にあったろうなぁ と、ソッと両掌を乳房の上の部分において、オッパイ全体を上げようとした時、「アレッ?」と気が付いた。右掌が、丁度、卵ぐらいの大きさの硬い塊に触れた。           一瞬「ヒョッとして乳がん?」との考えが、頭を過ぎったけれど、この頃の私は「自分は、乳がんなどになる筈が無い」との愚かな過信に取り付かれていて、直ぐに打ち消してしまった。それから、入浴の度に、今まで、パッパッとしか胸も触れた事がなかったのに、念入りに触るようになり、「変だ」の思いは消えず、それでも、本で読んだ乳がんは、小豆粒とか、大豆とか、つまめるぐらいの大きさと書いてあったし、こんな掴みきれない大きさは、ガンである筈がないと勝手に決めて、余り気にもせず、長江の船旅に行ったりした。

初めての入院体験(阪大眼科−5)

 12月14日(日) 診察なし。メール、細かい字、CDの取り説などは読めるのに、周囲がよく見えない。院内のローソンへ、電池を買いに行ってガッカリするる。並んでいるものが何かはっきりと見えず、全て店員さんのお世話になる。眼内のガスの水平線は、最低近くまで下がってくる。携帯メールは上手くなった。                    今朝は雨上がりで、景色がはっきりしているのは解るが、手当たりしだいに色んな方向でシャッターを押したものの、確認の為の液晶画面がよく見えない。水平線が下がっても、視野がはっきり見えるか心配。               夕方Y先生にお会いしたら、月曜日にも診察あり、視野のことは、あまり心配しなくて好いと言われる。

 12月15日(月) ガスも35%ぐらいが残るだけになった。電話も、顔をくっつけなくても、番号が読めるようになり、立ったまま掛けられるようになる。エレベーターの表示や、トイレ操作表示もスッキリ読めるようになる。       お隣のベッドの治験の方は退院して、次はブドウ膜炎による白内障の人が入院して、私同様、硝子体の手術の予定。「ブドウ膜炎」などは、此処へ来るまで聞いたこともなかったが、やはり、大学病院となると、簡単な白内障だけの手術と云うのは少ないようだ。                今朝の診察で、明日の退院の許可が出る。家へ電話する、毎日同じような味気ない食事、くたびれた様子だったが、ほっとした様子。無理もない。これぐらいが限界だったようだ。本当にスミマセン。

12月16日(火) 退院。退院後通院の予定や、日常生活の留意点についてのプリントを貰う。              明日、術後1週間目から水だけの洗顔と介助洗髪OK。 術後2週間目 石鹸を使っての洗顔と、自分で洗髪OK。  退院前に、入院中、気になっていた事も、看護師さんに尋ねておく。それは,同質の3人の入院患者の名前のうち、私のだけが、退院するまで、ずっと黄色○だった事。手術当日の患者名には赤○とは知っていたけれど。黄色○は、体に負荷が掛かってっている人、つまり私は、眠る時の体位がいつも左下という事になっていた。黄色○の人は、火事などがあった時、優先的にに避難させる人だそうだ。   家族にも心配や迷惑をかけたけれど、頼りがいのある先生方、キビキビしっかりした看護師さん、気持ちのいい入院友達と出会えて、不謹慎な言い方かもしれないが、楽しい入院体験でした。

初めての入院体験ー4(阪大眼科)

  12月13日(土) 8時過ぎから、何回も、先生が変わって診察あり。暗室で、何度もまぶしい目に遭うが、これも大学病院なら、研究目的も有りで仕方ない。眼内のガスは、徐々に下がってくるとの事。丁度、水中と水面の境目で、物をを見ている感じ。本当に全部ガスが無くなるか心配になり尋ねると、月曜日頃から半分ぐらいになり、そうなると、ガスの減り方が急になり、水面も下がるから心配ないとの事で安心。                          患者が、一人一人心配になり尋ねる質問も、先生からすれば、きっと、同じ質問を相手は変わっても、何回も受けておられる事だろう。それを、煩そうにもなさらずに答えて下さるのは有り難い。                        ガスが、凸レンズの役目をしているのか、携帯を顔にくっつけると、メールも打てるようになる。また使い方の解らぬまま持って来た、CDプレヤーの取り説も、どうにか読めるようになり、唯、エンドレスに聞き流していた、ショパンの小品集や映画のサウンドトラックも、聴きたいものを選んで、聴ける様になる。首下だけの入浴が許可される。私の受け持ちの看護師さんが、気を利かせて、一番風呂に入れてくれたが、湯気がこもっていなくてとても寒ーい。         阪大病院は、消灯時刻が、夜の10時で(大抵の病院は9時だと思う)NHKの9時のニュース番組も見る事が出来るが、左を下にして横になると、画面は見えず音だけ。消灯後は、暗い中で、入院友達と、色んななお喋りに花が咲く。まるで、修学旅行の時の様だ。みんな内臓の病気ではないので元気なものだ。

初めての入院体験ー3(阪大眼科)

 12月12日 8時過ぎから回診。 手術した目が時々チクチクしたり、痒いのが気になっていたが、主治医から「非常に良好」と言われて安心す る。ゴーグルを24時間装用。 剥がれていたのをくっ付けた網膜が又剥がれないように、眼内にはガスが充填されている。             このガスの圧力で、網膜をくっつける。普通の姿勢だと、ガスは軽く浮いてしまって、圧が掛からないので、しばらくは24時間うつ伏せ状態でなければならないそうだ。     手術より何より、この四六時中うつ伏せ状態で居るのが、最も辛い治療だそうだ。私の場合は、右目だけだったので、顔を左下にした横向きだった。就寝中など、無意識に、上を向いたり、反対側を下にして眠っていないか、看護師さんが見に来ていたらしい。
点眼薬は、クラビット(殺菌作用で、感染を予防)/ リンデロン(目の炎症やアレルギー症状を抑える)/ ブロナック(炎症を抑える)の3本が出る。 3本あるいは2本を、5分間隔で挿す。忘れない様に、3人が声を掛け合って、「せーの」で指していた。   内服は、抗生剤が1日2日分、出ていたが名前は忘れた。                     
ベッドに置かれる注意書き、予定表は、ものすごく大きな字で書かれているし、点眼薬は表にして、挿す時にそれぞれ●が貼ってあったり、目薬には、一目で判る様に色の印が付いている。視力の弱い人への配慮だと思うが、行き届いている。主人が白内障で入院した病院は、此処まで丁寧でなかった。   又内服薬は、食事時にそれぞれ、看護師さんが持ってきてくれるところは有るが、ここは服んだ後の薬の殻を捨てないで、置いておくように言われる。それで、服み忘れていないか点検する。 これも、眼科に多い中高年への配慮か。            
 私は、家でも、服用している薬があったので、それ等をこの箱にセットして持って行きました。これは、息子が友人に頼んで、買って来てくれた百円均一の商品だが、なかなか優れもの。     このままひっくり返しても、セットしたままに収まっているし、箱の中を覗けば、服み終えたかどうか一目瞭然。散剤は入らないが、百円にしては、よく出来ていると、感心しています。